脱獄囚シン・チャンウォンの青春

(1)シン・チャンウォン、自殺を図る
2011.08.19
신창원 자살 기도
訳)シン・チャンウォン、自殺を図る

前世紀末、韓国で一世を風靡したトリックスター。

脱獄囚のシン・チャンウォン(申昌源 44歳)が、
服役していた慶北第一教導所(かつての青松教導所)で、
18日早朝4時、自殺を図った。

現在、意識不明の状態。

清掃用のゴム手袋でみずから首を絞めたという。

教導所の話では「シンが過酷行為を受けていたことはなく、
先月、父親(86歳)が亡くなってから元気をなくしていた」とのこと。
監房からは遺書とみられるメモが見つかった。

ひと言、「申し訳ありません」

 

シン・チャンウォンは1967年5月28日、全羅北道金堤市金溝面で
3男1女の貧しい家庭の末っ子に生まれた。
8歳にして母親と死別したという。

小学校は卒業したものの、中学校はまともに通えず、素行不良、
1982年、15歳で少年院に入ったシンだったが、
拳闘(ボクシング)選手としてすばらしい才能を発揮した。
全国大会(国体)で3位になるほどの逸材だった。

プロとして世界を狙えるほどの素質があったのだが、
少年院を出たあとは、もう1つの「拳の世界」、つまりヤクザの道に入り、
1989年、強盗事件を犯し、逮捕され、無期懲役の判決を受けた。
最初に収監されたのは青松教導所だったが、
1994年に釜山教導所に移された。

1997年1月。

物語が始まる。シン・チャンウォン、29歳。

釜山教導所のトイレの窓の鉄格子を切断し、脱獄したのだ。
当時、その狭い隙間をすり抜けられるよう20㎏も減量したという。
脱獄囚、シン・チャンウォンの誕生だ。

それから2年半年、シンは空き巣を働きながら、逃亡生活を送った。
もっとも、入った家(金持の家)に人がいなかったら「空き巣」だが、
人がいたなら「強盗」となったわけだが。

神出鬼没、少年時代にボクシング選手として類まれな才能を
発揮していたシンは、その高い身体能力で、マンションの配管を伝って
高層階に侵入したりしながら、犯行を重ね、
また警察の手を大胆かつ巧みに逃れ続けた。
追ってきた警察の銃に撃たれながらも逃げきったり、
いよいよ逮捕されるという瀬戸際で、相手の警察官の拳銃を奪って
逃げるなど、まるでアクション映画のようなこともやってのけた。

1999年7月、全羅南道順天市のアパートで、
ガス管修理に来た修理工の通報により、逮捕され、
2年半の逃亡劇は終わった。

ところで、シン・チャンウォンの逃亡生活を支えたのは、
たくさんの女性たちだった。

シンは、歓楽街で知り合った女性たちとの同棲を繰り返していた。
要するに、かくまってもらっていたのだ。
そして、近隣住民の通報などで、警察の手が迫ってくると、
さっと逃げ、次の女性の下にもぐりこむ、という方式だった。

(2)「最後の女」が語ったシン・チャンウォン
2011.08.22
シン・チャンウォンについては、あることないこと、
おびただしい噂が出回り、誇張されているものも多く、
何が真実なのか、わからない状態である。

私としては、できるだけ実像に迫り、
よけいな装飾は取り払いたいと思う。

そのため、2人の、かなりシンとの接触が深かった人物に
限定して(メディアもある程度、信頼できるものに限り)、
その証言を紹介したいと思う。

最初の証言は、いわゆる「最後の女」、シンが
逮捕されたときに同居していた女性のもの。

탈주범 신창원의 마지막 동거녀 김명주 씨
訳)脱走犯、シン・チャンウォンの最後の同居女性、キム・ミョンジュさん

「女性東亜」の99年、シン逮捕直後の記事である。

記者は、「最後の女」、キム・ミョンジュさん(27歳)に、
シンの逮捕の翌日、7月17日、「犯人隠匿容疑」で取り調べを
受けていたさなか、順天警察署の留置所で会ったとのこと。

記者は、キム・ミョンジュさんのこのときの様子、印象をこう記している。

「『遊興業所出身』(要するに水商売の女)とは思えないほど、
清楚で愛らしい姿。化粧気のない素顔、スリムな体。
アクセサリの類も身に付けず、20代前半の平凡な女子大生のよう。
しかし、気性はやや激しく、取り調べの刑事に対しても声を荒げるなどした。
当日、徹夜で取り調べた順天警察署刑事1係パク・ジュンギ刑事(48歳)は、
『外交的な性格であるが、我執がやや強く、大胆な性格』と、その印象を述べた」

キム・ヨンジュがシンに出会ったのは、99年6月25日、
忠南論山のある「団らん酒店」(酒が飲め、女性もつくカラオケ)だった。

夜遅く1人でこの店に入ったシンは、洋酒を注文して静かに飲んでいた。
キム・ヨンジュはその姿を印象深く受け止めた。自然に2人は会話を交わし、
意気投合、場所を変えて翌日未明まで話し込んだ。

すっかり打ち解けたところで、シン・チャンウォンは、
「おれがシン・チャンウォンだ」と言った。

キム・ヨンジュはにわかには信じられなかった。
しかし、シンが傍らにあったスーツケースを開け、ぎっしり詰まった
1万ウォン札を見せたため、信じるようになったという。

シンは次に、彼女に「借金はいくらだ?」と尋ねた。
そして翌日直ちに、キム・ヨンジュを縛っていた店からの借金、
500万ウォンを支払ったという。

(3)「おかずはすべて彼が作りました」
2011.08.24
出会って2日目、6月27日。
2人は「故郷の順天で暮らしたい」というキムの希望で、
順天にやってきた。

2年半の逃亡生活で、一度も訪れたことのない全羅道
(シンが避けていたシンの出身地方)に、
キムが「そこで暮らしたい」という理由だけで移動した。
そのことにキムは大いに感動したという。

順天に着くと、2人は、すぐ照禮洞にある29坪のマンションに
多額の保証金を払って契約。7月1日に入居。

保証金8000万ウォンのうち半額はシンが支払い、
残りの半額はキムが銀行から融資を受ける形にし、キムの名義で契約した。
全額を支払うこともできたはずだが、半額は融資にするあたりに、
シンの用意周到さがうかがえる。

「エレベーターを使わなくていいように、2階を選んだ。
狭くて密閉された空間で、1日に3~4回、他人と接触するのは私も彼も、
大きな負担だった。できるだけ、他人と接触しないようにした」
とはキムの述懐。

ここで暮らしたのは16日間。
このマンションは比較的寂れたところにあり、80%ほどの入居状態。
人目を避けたい2人には都合がよかった。

2人の家は、まるで新婚夫婦の家のようにきれいだったという。
家具はすべて新品。夜遅く仲良くドライブを楽しんだりしていた2人の姿は
新婚夫婦のようだった。
※もちろんシンは無免許。教習所に通ったこともない。
しかし運転技術はプロドライバー以上、
逃亡生活でも大いに車を活用したという。

2人は入居後、マンションの住民と顔を合わせないように注意し、
昼は室内で過ごし、夜外出する生活。
たまに昼、外に出るときはサングラスと帽子を着用した。

「サングラスをかけ、帽子をかぶり、サンダルをはいた2人が、
マンションの裏のベンチに手をつないで並んで座り、
アイスクリームを食べているのを見たことがあります」
同じマンションの住人の話。特に変わった点はなかったとのこと。

キム・ミョンジュは警察の取り調べで、こう話した。
「私は料理がまったくできませんでした。私はご飯を炊くだけ、
おかずはすべて彼が作りました。
書店で料理の本を買ってきて、自分で1ページ1ページめくりながら、
私のために、2人のために、料理を作っていました」

こういう面に、シン・チャンウォンの大胆にして繊細な性格、
高い知性がうかがえる。脱獄囚として、常に不安におびえながらも、
落ち着いて、その時々の時間を大切に過ごすことができる。
凡人には不可能である。

シンの「教養人」としての姿について、多くの女性たちの話を基に、
記者は、こう記している。

「いつも教養書を3~4冊抱えている。
釜山教導所時代に独学で学んだ英語と日本語。
落ち着いた話し方と柔らかなマナー。
これらが『寂しい女たち』に、いっしょにいる男は
犯罪者だという事実を忘れさせたのか。
シン・チャンウォンが女性には途轍もなくやさしかったというのは、
『もう陳腐になった事実』だ」

シンとキム、2人は特にすることはなく、24時間、ただいっしょにいたという。

キムは、シンの限りない愛情を受けながらも、常に不安だった。
「いつも不安に苛まれていました。
テレビでシン・チャンウォンの特集番組を見たりすると、
自首を勧めるべきではないかと悩みましたが、
できませんでした」

また、こうも話した。
「彼は子犬が好きでした。論山で会う前から、
(車の中で)マルティスの愛玩犬を飼っていました。
いつも1人で追われている身なので寂しかったのでしょう」

シンはキムにダイヤモンドの指輪をプレゼントした。

一方、逮捕後、2人が住んでいたマンションの冷蔵庫から、
ほとんど飲まれていない「補薬」が見つかった。
キムが、「長い逃亡生活で胃を痛めていた彼のために
韓方医に調合してもらった」ものだった。

逮捕後、シン・チャンウォンは「同居女性は何も知らない。
処罰しないでほしい」と警察に頼み、
キムもやはり「彼には元気でいてほしい」と遠回しな言い方で、
シンへの思いを吐露したという。

(4)道を外れた「大魚」
2011.08.27
もう1人の証言者は、ボクシングジムの会長。

1989年の敦岩洞事件でシン・チャンウォンは
強盗殺人罪で無期懲役の判決を受けて収監されるのだが、
その直前のシン(22歳)をよく知る人物である。

日曜新聞(99.9.14)に 「세계 챔피언 될 뻔했던 신창원?」
(世界チャンピオンになっていたかもしれないシン・チャンウォン)
というタイトルで、彼の証言が掲載された。

「すごくスピードがありました。
ヘビー級に近い体でフライ級のスピードが出る。
基本技もできている。ひと目で『大魚』だと思いました」

88年12月、この会長の下に練習生を志願してシンがやってきた。

シンにシャドウボクシングをさせてみた会長は、そのすばらしい才能に感嘆した。
※私も若いころ、ダイエットを兼ねてボクシングジムに通っていた時期があるのだが、
当時、トレーナーから聞いた話では、専門の指導者なら、
新入りのシャドウボクシングを見れば、だいたいどこまで行けそうか、
ピンとくるということだった。

「よく訓練させて、パク・ジョンパル(朴鍾八 80年代後半に活躍した中量級の名選手。
第2代IBF世界S・ミドル級王者にして第1代WBA世界S・ミドル級王者)と
対戦させようと思っていました。

当時、パク・ジョンパルは無敵でした。私はシン・チャンウォンなら
パク・ジョンパルと戦えると思いました。
6カ月から1年くらい鍛えればじゅうぶん可能だと思いました」

会長にはアマチュアで3年、プロで6年、通算9年のボクサー経験があった。
しかし、大した成績は残せなかった。

会長はシン・チャンウォンに大いに期待し、シンのためのサンドバックを買い、
住居もジムの近くに移してやった。
自分が果たせなかった夢をシンにかけたのだった。

会長はシンに「一生懸命がんばればパク・ジョンパルと戦わせてやる」と
自信をもって語り、シンも「一生懸命やります」とよく従っていたという。
最初のころは…。

自分がほれ込んだ選手への愛着も加味されているのかもしれないが、
この会長がシン・チャンウォンから感じていた印象は良かったようだ。

「情の多いやつだった。温厚だったね」

シンは脱獄中、いつも女性たちと過ごしていた
(というか、かくまわれていたというか、隠れ蓑に使っていたというか…)が、
この当時も女性といっしょだったという。

出会った当初のころ、会長がシンの自宅を訪ねたとき、シンの手に血がにじんでいた。
理由を尋ねたところ、いかにもシンらしいものだった。

シンは当時、巨餘洞で女性と同棲していた。
この女性は近所の飲み屋で働いていたのだが、空輸部隊(パラシュート部隊。
危険な任務のため頑健な若者が多い。
訓練は厳しく、隊員たちの気性もやや激しい傾向がある)の軍人たちが
この女性をからかったためケンカになり、怪我をしたとのことだった。

こんなこともあってか、「大魚」が平穏な生活の中でボクシングに専念できるようにと
思ってだろう、会長はジムのある千戸洞に、シンのために部屋を借りたという。

(5)チャンピオンを目指すはずだったのが…
2011.09.01
テーマ:脱獄囚シン・チャンウォンの青春
シン・チャンウォンの人生での大きな岐路となったのが、22歳、
可能性に満ちあふれていたこの時期。

このときに真面目にボクシングに取り組んでいたなら、
真のスターになっていたかもしれない。

シンに賭けていた会長は、熱心にチャンピオンへの授業を施したが、
充実した日々は長くは続かなかった。

本人にその気がなくなったのだ。シンは、
ある日、だしぬけに、会長に言った。

「全州から上京した仲間50余名がホテルに泊まっています。
ヒョンニム(お兄様 会長のこと)が助けて
くださったなら、この千戸洞を『接収』いたします。

ヒョンニムの人脈なら可能であります。私が運営をお引き受けします」

要するに、ヤクザのボスとなって、ジムの周辺の繁華街を仕切ろう
と思うので、そっちのほうで協力してください、ということ。

「おまえ、なに、バカなことを言ってるんだ!」

もちろん会長は、シンを引きとめた。が、シンは会長の制止を
聞き入れなかった。
やがて、3カ月もすると、シンは練習をおろそかにするようになり、
いつのまにか、ジムに顔を出すこともなくなった。

そして89年3月、シンは突然、会長の前に再び姿を現した。
別れを告げに来たのだった。

敦岩洞での強盗殺人事件(シン・チャンウォンと共犯3人が
敦岩洞ある金持ちの家に泥棒に入り、共犯の1人が主人を殺してしまった事件)
の話をしながら、こう語った。
「新聞をご覧になったかもしれませんが、トンセン(弟分 後輩のこと)たちが
事故を起こしました。私は、今度、つかまったら無期を受けるかもしれません」

こう言い残すと、風のように去っていったという。
会長がシンの姿を見た最後であった。

(6)義賊か、馬賊か
2011.09.07
テーマ:脱獄囚シン・チャンウォンの青春
97年12月、年の瀬に、京畿道平澤市の障害者施設と少年家長2人に
180万ウォンの寄付があった。

後にこの寄付はシン・チャンウォンによるものだったことが明らかになった。
逃走途中で警察が確保したシンの遺留品の中にあった自筆日記に
記載されていた事実と合致したのである。

金持ちから金を盗んで、弱者に施す、ということで、
シンは一気に庶民の人気者になり、一部では「義賊」と目されるようになった。

シンは全国に指名手配されており、
5000万ウォンという当時最高の懸賞金もかけられていた。

当時、超有名人だった彼の顔は、韓国の国民ならみんな知っていたほどだ。
もちろん接触のあった人からの通報で駆け付けた警察に
何度も捕まりそうになったし(そのたびに着の身着のままで逃げ、
次の仕事(窃盗)でまとまった金を得、次の隠れ家となる女にたどり着くまでは、
洞穴に潜み、ネズミなどの小動物を捕えて食べたりもしていたという)、
最後もやはりガス管の修理工の通報だった。
「変装の達人」としても知られていたが、いかに「達人」であったとしても、
いつ警察に踏み込まれるかわからない、常に見つかる危険と大きな
不安の中で過ごしていたのである。

一部の庶民は警察の手を巧みに逃れて逃げ続けるシンに
拍手喝さいしていた。警察がシンを取り逃がすたびに、
新聞が克明にそのてん末をレポートしていた。

「どうか捕まらないで、逃げおおせてほしい」

という庶民の願い、いわゆる「シン・チャンウォン/シンドローム」の中、
模倣犯まで現れ、シンはヒーローになっていった。

度胸や腕力以外にも、たとえば、警察の追尾を常に振り切った
車の運転技術の高さが有名だった。

ジムの会長の話。
「当時から、シンの運転技術は神業に近かった。
ある晩、汝矣島から千戸洞までシンの車に乗ったことがある。
混雑していなければ、通常15分の距離だ。それをシンは5分で走破した」

ついでに、会長はシンのこんな面にも触れている。
「キャバレーでは歌唱力とダンスのうまさが際立っていた。
舞台に上がった姿は、プロのようだった。抜群の『舞台体質』
(つまり芸人としての才能)を持っていた」

こういうさまざまな特質からするに、またその発想、行動のしかたからして、
私は、シン・チャンウォンというのは韓半島で、昭和の初期ぐらいまで
闊歩していた馬賊の流れを汲んでいると感じる。
(女たちにとっては、ピーターパンみたいな存在だったともいえるかな)

この人は、時代をまちがえて
生まれてきたのかもしれない。

さて、じつに興味深い証言をしてくれた会長だが、
97年、釜山矯導所を脱獄したシンをテレビで見てから、しばらく、
ずいぶん迷惑をこうむることになる。

警察にシンの「庇護勢力」という疑いをかけられたのだ。
取調べは2カ月に及び、盗聴されたりもしたという。

日曜新聞とのインタビューの最後に、会長は、こうつぶやいたという。

「残念であります。当時、私が果たせなかった夢をシンが果たしてくれる
と思っていたのに…。将来、機会があったら、一度、面会に行ってやりたいです」

sin

(7)哲学者への道
2011.09.12
自殺を図り、一時は意識不明に陥ったシン・チャンウォンだが、
幸い、搬送された矯導所外の病院で意識を回復し、
すぐに食事などもできる状態に戻り、20日には退院し、矯導所に戻った。

さて、99年7月に再び収監されたシンには、これまでの無期に加え、
新たに22年6か月の刑が科せられた。

事実上の「終身刑」になったといえる。

以降、シンは模範囚として受刑生活を送ってきた。
少年時代には、ろくに学校にも通わなかったのだが、
矯導所では勉強に励み、中卒と高卒の検定試験を受け、合格した。
さらに心理学を学び、大学の学士号も取得したいと考えていたという。

脱獄中の「似非教養人」から、真の教養人に成長しようとしていたかのようだ。
そんなシンの側面がよくうかがわれるエピソードがここに紹介されている。

‘자살 기도’ 신창원, 여성에게 애틋한 편지 “자신감을 가져”
訳)「自殺を図った」シン・チャンウォン、女性に切ない手紙「自信を持って」

国民日報のこの記事によると、シンと親交のあったムン・ソンホ(文成晧)
自治警察研究所所長なる人物が、8月22日、自分のサイトに
「シン・チャンウォンが自殺を図る直前に書いた手紙」として、
同月9日に、シンがある女性に送った手紙の全文を公開した。
この手紙はシンが自殺を図る前日に女性のもとに到着したという。
手紙でシンは、恋愛に悩む女性をなぐさめ、「勇気を持って」と励ましている。

そして、勇気を持つことの大切さを説明するに当たり、シンは、
アメリカの有名なモチベーター、ジグ・ジグラーの文章を引用している。

「1m以上、飛ぶことのできるノミを、20㎝の高さの瓶に入れてふたをする。
すると、ノミは脱出を試みるが、時間がたつにつれ、
脱出に挑戦する回数が減り、やがては、
ふたをとって脱出できるようにしてやっても、飛び上がろうとはしなくなる」

このエピソードは、
シン・チャンウォンの人生そのものではないだろうか!

ムン・ソンホ所長によると、シンは、今年1月にムン所長に送ってきた手紙で、
10年余りの独房生活の苦痛と矯導所内の統制に対する不満と挫折感を
訴えていたという。

「10年以上、懲罰を受けたことはなく、他人に危害を加えたり、
逃走を図ったこともないが、10年以上、独房に隔離されている」
「なぜ手錠をはめられなければならず、テレビの視聴も
禁止されなければならないのか」と記していた。

シンは「10年以上、収監者を独房に入れる苛酷な矯導行政について、
行政訴訟と憲法訴訟を通じて問題提起をするために、
論文の作成も準備している」とし、ムン所長に海外の矯正行政の優秀事例と
厳しい拘禁が生む副作用に関する資料を送ってほしいと頼んだりもしていたという。

ムン所長は「シンの自殺未遂は、父親の死のためというよりも、
長期囚に対する絶望的な収監の実態のためだと考える」と強調したとのことだが、
私は、やはり父親の死によるショックが大きかったのではないかと思う。

ボクシングジムの会長が一度でもシンとの面会に来たかどうかは定かではないが、
私は来なかったと思う。脱獄期間中に暮らした多くの女たちもしかり。
不良仲間や兄弟などが訪ねてくることもなかった。
ムン所長のような社会運動家や宗教関係者以外では、
唯一、父親だけが時々面会に来ていたという。

父親の死目にも会えず、弔うこともできず、刑務官から「父親が死んだ」
と聞かされただけ…。今後も、一生、墓参りもできない。
自ら招いたこととはいえ、そういう境遇による悲しみ、親不孝を悔いる気持ち、
さまざまな感情で胸がいっぱいになり、極端な選択をすることになったのではないか。

シン・チャンウォンは、上記の女性への手紙で、脱獄直後のこういうエピソードも記していた。
「1997年、釜山から脱獄して1か月くらい過ぎたころか?
公州にあるモーテルに行ったら、そこを管理していた12歳年上の女性と知り合った。
この人がとても温かく接してくれ、叔母さんか姉のように慕っていた」

シンには、やはり繊細で心優しい面がある。知性も高い。
まだ44歳である。今後は、哲学者への道を歩んでいくのではないだろうか…。
私は、この人は、かなり高い精神的境地に到達する可能性があると思う。

私にとって、シン・チャンウォンというのは、とても興味深い人物なのです。

(終わり いったん…)

彼の逮捕当時にソウルに住んでいました。
韓国語はそこまで堪能ではないので、ニュースは半分ほどしか理解できなかったのですがなぜか記憶に強く残っていました。
注目を引いたTシャツやモンチャンよりも、彼のが悲しそうな目元が印象的だったからでしょうか。
こちらで詳しい生い立ちや逃亡生活の内容を読んで、これもまた貧富の差が生んだ悲劇だと感じました。
彼がしたことは社会的に許せることではありませんが、貧富の差はいつでも犯罪と憎しみを生んでしまう、改めて感じました。
救われない気分です。

totoro

自らの持って生まれた才能を開花できるチャンス、
それはその天賦の才能を恵まれること以上に限られている、
中国では10人のイチローが、田舎で豚に残飯をやりながら、
一生を終える、という説に納得したことがあります。

シン・チャンウォンというのは、まさにこの意味での「イチロー」だった
のではないか、あの時代を思い起こしながら、
つくづくそう思います。

kouichi

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脱獄囚シン・チャンウォンの青春」への1件のフィードバック

  1. 周りの環境が、ちゃんとしていれば、彼は才能を伸ばすことが出来たかもしれない。
    生まれ、育ち、学校、家庭に関係なく、自分の進路、やりたいことが出来る教育体制になれる社会であることを祈ります

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